Thursday, October 28, 2004

ピアノ マスタークラス

10月24日(日)日比谷スタインウエイ松尾ホール
レスリーハワードによるピアノマスタークラス

に出席した。

松尾ホールは米国の感覚から言うとホールというより「スタジオ」という大きさ。キャパは80人程だと思う。実際に来日直前の地元スタインウエイディーラーのコンサート会場よりも小さかった。

まず全体的に感じられたのは受講者自身も聴講者も「マスタークラス」というものなのがナンなのかよく理解していないように思われた。
主催者側からは初めて出席するものに対しての「心がけ」等の注意書きはなし。

もちろん常識として「マスタークラス」が一般的に知られている欧米ではその必要もない。マスタークラスに出席するレベルのピアニストたち、または音楽愛好者たちはすでにどういう形式なのかは大体わかっている。
ところが、今回かなりの高レベルの課題曲にもかかわらず「生徒によるジョイントコンサートみたいなのでしょう?」「生徒たちが出てきて課題曲を演奏するんでしょう?」というぐらいの認識。

マスタークラスで肝心なのは講師の「批判批評、受講者による質疑応答」なのだ。

受講者はピアノテクニック的には文句の付けようが無い準備度、しかしながらそれだけのレベルでありながら本人たちからの質問はまるで皆無。ハワード博士が一方的に喋っているだけ。

日本では「講師の言うことを拝聴する」のがいいことで、受講者は黙っているだけという事が大学や企業の講習などでも定着しているのかもしれないが、欧米では「黙っている受講者はフマジメで参加する意思が薄い」「あまり準備をしていない」「無理やり参加させられている」と理解されても仕方ないだろう。
それから質問をしないのは「講師の言うことがつまらないから、レベルが低いから」という事もありうる。

どちらにしろ、欧米の講師にしてみれば「ナンだ、こいつらやる気があるのかな?」という感じに取れないことも無い。受講者はあまり緊張しているというほどでもなかった。

いや、英語が出来ないから・・・は理由にはならないはず。一応通訳がいるのだし本当に自分が何かを得たいと思うなら自然に日本語でも
「アレ、ここは自分でもこういう方法やこういうので試してコレに収まったんですが」とか
「いや、実は私の教授もそういっていたのですが私個人としてはこの解釈のほうがこう理由で、すっきり収まるかな?と」
というような課題曲なりにハイレベルなデイスカッションを受講者と講師の間でして欲しかった。特にある部分でリストの指示自体が通常のピアノ教育における解釈と大幅に異なる所があって、受講者も聴衆の理解も多分受講者の弾いたとおりだった箇所があった。
それを受講者は説明せずに「ああ、そうですか」とまるで問題にせず鵜呑み。
そこで、「通常だと繰り返し部分はわざと解釈にヴァリエーションをつけるのですがなぜリストはまるっきり同じ解釈を強制しているのでしょうか?」
とは誰も聞いてくれなかった。それはやはり弾いた本人にしか出来ない質問ではないだろうか?
ある意味でマスタークラスの受講者は「全員の代表であるのだ」という意識を持ってもらわないと、活発にならない。
また、それがリストのマスタークラスでも期待されていたのだ。
個人練習ではなく「ライバルやまるっきりレベルの違う聴衆の前でレッスンする」というのがリストが初めて導入したピアノ講習のスタイルである。
現在ではその「リスト伝統」に従って他の楽器でもマスタークラスというと、同じような形式で開催されているのだ。
せっかく現代のリスト伝統後継者とも言えるハワード博士が来日しているのにそういうことも理解していないと味も素っ気も無いではないか。


マスタークラスでは「自分なりの解釈をピアニストとしてある程度完成させられる」というのが受講者の条件であるわけだから、そういう質問が出ることが前提のはず。
受講者は課題曲をやっていても「あの曲ではコウいうテクニックでうまくいくのですがコレも同じでしょうか?」とかそんなレベルの質問をすることによって聴衆も恩恵をこうむることが出来るから、聴講に参加する音楽愛好家がたくさんいるのである。
ところがそれはほとんど無し。
一名ハワードについて廻っている外国人の生徒は質問していたが、さすがに毎回顔をあわせているので改めて質問する必要がなかったと考えられる。その点、日本人の参加者はハワードのそのときが初めてという事が会ったはずで「いつもと違う先生から違うことを習う」という姿勢も必要だ。

主催者はハワードにも参加者にもどういう出版社の楽譜を使用するのか連絡していなかった。
リストコンクール、研究者の間では当然のごとくいわゆるブダペスト版、「Editio Musica Budapest :Liszt Klavierwerke」が基本、前提となるのだがそれらは徹底されていなかった。

受講者でもその版を使用していない人がいたし、聴講者は様々な版を持参。当然ブダペスト版には草稿を基本にした曲が収録されているわけで受講者の弾いた部分が収録されていない本を持参していた人たちがほとんど。
ハワードはそのリストが書いたコメントに忠実に弾かせているのでそれが書いていない版で練習していったと思われる、あるいはリスト特有の表現-コレがかなりあるんだ-を確実に弾いて行かないと注意を受けることになってしまう。
それが書いていない楽譜を使用していては元も子も無い。
それでは講師のコメントを聞いても何を言っているのかさっぱり理解できない。

リストの曲はそういうことがあるからハワードがアレだけ時間をかけて最新カタログを編集しているのである。既に出版予定日を一年以上経過しているが、ハワード博士本人に質問したら「一冊ではなく二巻になる予定なのと、数曲実際の草稿入手に手間取っているものがありそれが完全に終わらないと出版できない」との事。簡単なものは今年9月にイタリーから出た、との事。

マスタークラスでは受講者、聴講者がやはり「講師の専門分野に詳しい」というレベルであることがより望ましくそれだと活発な講習結果になるだろう。

通訳嬢は海外留学の経験があるらしいがかなりの初心者といわざるを得ない。自己紹介の通訳程度なら問題はないのだが、やはり高レベルの楽典の説明などは勘違い、間違いだらけ。
最初は一回「訂正」してあげたものの(野次ともいう)大体、私がわかればいいのだしもともと自分でわからないところは直接講師に質問したのでその後は黙っていた。

通訳が必要なのはそういう「長6度」と「7度」の和音がどうして違うか?なんてあたりでそれを講師がリストの「音楽的な意図」と「楽典の理屈」とともに説明しているのになんだかあやふや。
彼女はホカの楽典に関するところは日本語の音楽用語を使用していたのにAugmented(長=シャープになるところ)という単語が理解できていないので肝心な部分は全部省略。あそこまで堂々とやられると文句をつける気もなく、わかっているのはハワードと私だけでもこの際関係ないか・・・となってくる。

ハワードは世界各地でマスタークラスを何度も開催、当然受講者以外からも休み時間等に質問などを受けることがあると見えて私が休憩中に歩み寄っても、向こうから「どんどん質問して。」
おおーやはり。と聞きたいことを全て聞く。私の持参していた本を覗き込み「ああ、コレは役に立つよ。良い本だと思う。」「今度この本の内容が英国リスト協会の会報に掲載されるよ。入会の手続はこのメールにすると送ってもらえるはず」と教えてくれた。
そのなかで版に関することなどはクラスが始まる前に会場でも紹介説明。
少なくとも他の人にそのぐらいの情報はもって帰っていただけたので私も質問した甲斐があったというものだ。

欧米の大学では有名音楽家によるマスタークラスは当然のように一般にも聴講(うまくいけば受講も)開放されるので特に主催した大学の学生でなくてもそういう機会に参加できる。

マスタークラス自体が様々なレベルで開催されているのでいろいろあると思うがせっかく、テクニック的にはかなり高レベル、一流の日本の学生たちが受講して、世界的レベルの講師が教えているのに、なぜか「ここはコウひきましょう」「ハイ」というやり取りを見てもあまり面白くない。
いわれるままに弾くだけのレベルの生徒はやはりマスタークラスではなくリストの言うところの
「君のレベルは音楽学校に行っていわれるとおりに弾け」
となってしまう。
リストは「こう弾け、なんて教えたりは私はしない。私はピアノ教師ではない。でも音楽家としてどうすればより高度な表現を出来るか?なんていうのなら喜んでお手伝いする。」
というのが彼の信念。だからお金も一銭も取らなかった。
「音楽学校で4マルク払って君はきっと新しく得るものは無いだろうが、ここならただで山ほど学ぶことがある」というリストの言葉は「当然レベルの高いピアニスト」だけに講習参加を許可していたからなのだ。

午後一番で非常にうまい少年がコンサートエチュードを弾いたのだが終始ペダルがめちゃくちゃ。(日本人はペダルの悪い演奏者が多い。遣いすぎ)
ハワードは
「君にペダルを教えたのが誰だか知らないけど銃殺されるべきだ...」
whoever did this (何でも良い)has to be shot...
という表現は結構英語で一般的に使われる。まるっきり役に立たない、という意味。つまり、テクニック的にも解釈、表現としてもなっちゃいないいいとこなし、という意味。
通訳の人はわからなかったのか、一言もなし。マ、SHOTということばが日本語だと強すぎるなら
「ペダルを教えた人は全然理解してませんね」
といっても意味は通じるはず。
そんな、気の利かせ方まで出来ないと外国語の通訳は成り立たないのである。

そしてなんとも講師に一番失礼だったし、同じ日本人受講者として恥ずかしかったのは最後、リストのピアノ曲でも代表曲である「ロ短調ソナタ」の演奏が終わり、ハワードの講習が始まる直前大量の聴衆が立ち上がり退場したことである。
講習会で講師の講習前に退場というのは演奏会で中途退場と同じレベルの侮辱である。
ハワード氏も苛立ちを隠すことなく
「何か私の言ったことでお気に召さないことがありましたか?」
と、ピアノから立ち上がりガン飛ばしたが、通訳嬢は完全無視、主催者も「席について下さい」と注意もしない。
アレはかなり失礼だと感じた。
通訳嬢はそういう時にも、会場を仕切るだけのガッツが無いといけない。もちろん主催者が事前にマスタークラスとはこういうものと宣伝して、コンサートではないから、講習中心、したがって講師の喋りがほとんどでそれが耐えられない人は受講しないでくれ、とはっきり注意書きを書くべき。(もちろん常識ナはずだけど明らかに誰もそう思っていなかったわけだから。)

もう一つ見ていておかしかったのは受講者、つまり生徒が舞台に後から出てきて、先生であるハワードには「お願いします」も一言も何も言わず(こんにちわも、ただの握手もなし)、先生にお尻を向けて聴講者に深々とお辞儀。
リサイタルじゃないんだから先生にしてみれば「お辞儀の方向が違うんじゃないの」と思ったはず。
最初に先生にお辞儀、お願いしますと日本語でもいいし「ハロー」と英語でもいいから挨拶して、それでもお辞儀をしたければしてもいいけど。
かれらが深ぶかとお辞儀している間先生は待っているわけでなんか滑稽だった。
礼儀っていうのは日本人は尊重するはずなのになんか違うな、的外れがあまりにもコミカルなのにハワード以外気が付かないのがおかしい。

あの受講者たちは芸大の先生とかには行ったら「ぺこぺこ」するわけでしょう?でも世界的リスト権威指導者にせっかく講習を受けるのに「真っ先にお尻向けちゃう」
滑稽さ、私には複雑に感じました。
欧米ではよほどのことが無い限り腰からオリ曲がるほどのお辞儀とかしないし、どんな大先生が相手でも大体、歩み寄って少しお茶目に"I'll do my best. Please be gentle with me."とか凄く丁寧にしたければ"I'm so honored to have this chance."と握手をする程度でしょう。それでいいと思う。でもこちらの気持ちは伝わるし講師に対しての尊敬の念も通じるはず。
なんか、無言でピアノに座り始めても悪いことは無いけど、個性がないというか。一応芸術家の卵なんだから「その場ステージを自分の物にするカリスマ性」見たいなのが少しでも見えると「おお、やはりレベルが違う」と私のような人間でも納得する。

ハワードも
「僕は普通だったりあまりよくなければgoodというだけですが今のは本当に凄かった。良かったと思いますよ。わざわざそういいたい」という演奏が一曲あった。
私も、その前の二曲とは格がちがう、コレだけ聞いていたら先生はほとんどいうことがなかっただろうと思ったらやはりその通り。リストの解釈に関して数箇所リマインダーをしただけでかなり完成されていた。
その高校生の彼が2年後、3年後にパフォーマーとしてテクだけでなくステージプレゼンスをどうやって見につけるかというのは、やはり本人の経験によって決まると思う。そのとき、彼が相変わらず、芸大の先生のところで「ぺこぺこお辞儀、黙ってハイハイ」と次の三年間やっていてそういうレベルになれるのか私にはさっぱり判らない。

全体的に受けた印象は「ハワードはピアニスト本人の解釈を基本にリストの指示をリマインドする。そして具体的な方法を実践的に教える」という方式。ある意味で「非常にリスト的にジェネラス」だと感じた。
自分も少しうまくなったら彼の師事を仰いで見たいと思わせてくれた。
解釈としても自分が想像していた理想の演奏と大きく違う部分はあまりなく(確かにリストのコメントを熟知している私には自然な事かもしれない)これから先、自分でリストのピアノ曲を練習する時にもこの方向で勉強していけばよいのだと確信できた。

一日6時間5千円は時間割の値段にするととんでもないバーゲン価格。とてもいいチャンスにめぐり合えてよかった。

1 Comments:

Blogger CuriousGeorgeSand said...

自分のポストにコメント))) 

通訳嬢。
がんばってたとは思うけど、通訳は「がんばればいいだけの仕事」じゃないんだよね。
今回は特に音楽、それもピアノ演奏という専門分野の通訳だったわけで関連用語がよくわからないとまるっきり使い物にならない。

彼女、付加疑問文は尽く反対に理解、(つまり「ではありませんか?」などという奴は「ですね?」という具合)結果的に先生の言っていることがまるっきり反対か、前後から意味がさっぱりわからなくなってしまうという事がよくあった。

それからスラングというより口語イディオム(ハワードはほとんどスラングを使わなかった)が100%アウト。
最初に彼女のレベルがばれたのはここ。

"...here, we will scare the daylight out of audience."
というフレーズだった。スケアの代わりにフライトだったかもしれない。つまりハワードはアクセントの付いた最後の和音を「ガーン」とならし
「ここで皆を脅かすわけだ。」
と言ったのである。scareの後の"the daylight out of"というのがいわゆる会話の時に強調するフレーズで特に意味はない。
基本的に
"here, we scare all the people ."
とまったく同じ意味であるが通訳嬢、
「ここに日を当てます」
え?
「ここに日を当てる」ってさっぱり通じないじゃないの、日本語でも。当然彼女は前後をわかってないからそういうことになってしまう。
ハワードが
「こう盛り上がってきてここで最後にガーンとね」
といっても良いのだ。

動詞 + the ~~ out of というのは口語ではよく使う。ハワードの使用したdaylight というのは私の知っている中でも一番お上品な表現と言える。
scare the hell out of me,
scare the heck out of my kids,
scare the devil out of them,
scare the fxxx out of everyone...
etc.
と言うわけなのだ。言ってみれば彼女が訳した部分は全然訳さなくても関係ないぐらい重要ではないのである。重要なのはその前の動詞である。

もう一つ本文にも書いたがハワードが説明した和音。
German Augmented 6th
少し楽典に詳しい方なら「あれ?」となるはず。

楽典の説明はさておいて日本語だとドイツ式長6度とでもなるのか「長」は当然「シャープ」なのだが通訳嬢なぜか「オーナメンテッド(装飾つき)」と勘違い。えーっと「装飾つき和音」なんて聞いたこと無いぞ。

他にもいろいろあったのだが前後から、なんとなく言わんとすることは判断できなくも無いものがほとんどだったので後は細かいものは指摘しない。(ハワードがひきながら「こうでしょ?」なんてのがおおいから)

もう一個覚えているので駄目押し。

リストの楽曲、それもピアノ曲でハワードというリストのピアノ曲全曲録音のピアニストが講師。
それでこの彼女なぜか virtuosoと言う単語知らない。コレはちょっと驚き。と言うか、米国で音楽学校に留学していてこの単語がわからずに楽器演奏を極めようと言うのには無理があるのではないか。

ヴァーチュオーソと言う単語には単純に「その楽器の名手」と言う意味の他に、「テクニックのひけらかし」と言うようなニュアンスもあるのだ。
つまりハワードの使ったのもその用法で
"...this is not the virtuoso piece. Do not show off your technique with this piece."
「チャラチャラテクをひけらかす曲じゃないよ。コレは。」といっている。(という事はリストの曲にはそういう曲がたくさんあるという事だ、と突っ込んでしまいそうな私。)

リストってヴァーチュオーソの元祖じゃなかったの?(パガニーニとかいろいろいるけどピアノといえばやはりリストでしょ?)


***
本人が「わかってなかったことを一番よくわかっているはず」だといいけど・・・と余計な心配をする私。
でもあそこまで適当に造って通訳されると「それも才能」と思ってしまう。実は最初の一言で彼女が言葉に詰まったとき「あれま、この人英語出来ないんだわ。」とすぐにばれたのに、その後なぜか間髪おかずいろいろ適当な訳を入れていくので、きっとピアノでも「ごまかし」が結構うまいのかなと思ったりして。

October 31, 2004 at 10:30 PM  

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