Tuesday, December 21, 2004

19世紀の音楽の楽しみ方

さて、皆様は私がピアノだけでなくヴァイオリンも少しかじり、さらにはその昔は歌なども歌い、打楽器、ギターの基本知識なども有るのはご存知かもしれない。
つまりバンドで必要なことはどの楽器でも一応ピンチヒッターにはなるくらいの知識と技術は身につけたのだ。
音楽に限らず、色々な事を『自分でやってみる』のが好きなのだ。

昨日ベートーヴェンを素材にした映画 Immortal Beloved ゲイリーオールドマン主演 を鑑賞していたのだが、製作者が
「ベートーヴェンの曲は聞くだけと実際に自分で弾いてみるのとは大違いだ。現に当時彼は「聞く人」を想定して曲を書いたのではなく、楽譜を購入した人が自分で弾いてみることを意識していたに違いない」
というようなことを言っていた。

まさに、ひざを叩いて「その通り」と言いたくなってしまうコメントだった。良くぞ仰ってくれました。
私が個々のピアニストやパフォーマーに特に注意を払わないのは、主にこれも関係している。つまり彼らの演奏を楽しむことはあっても、それはただ単に「自分の代行」にすぎないからなのだ。
だから、特定の演奏家の演奏が全ていい、と思うことはまずないし、そういう聞き方もしない。どこかで耳にとまれば誰だろうと調べることもあるが、それはあくまでもその楽曲で、という意味だ。

当時はCDなんてものはなかったのでショパンが新しい曲を出版すればそれを楽譜屋に買いに行き、家に帰ったら自宅のチャチいピアノで練習しなければならなかった。
特にショパンは一般のためのコンサートには殆ど出演しなかったから、そこらのピアノ愛好家はショパンが自分の曲をそのように弾くか、まったく知らないのだ。
そして、よほどの余裕があるもの出なければピアニストのコンサートなどというものにも行くことが出来ない時代だ。それは作曲家達も良く知っていた。

したがって、現代人が「だれそれピアニストはどうの・・・」なんていうのはあまり価値のない論争ではないかと思う。
絵に置き換えてみればいい。
「これは私のコピーしたゴッホのひまわりです」
「これは私の描いたドラクロワの馬です」

なんていうのばかりで自分を「画家」とは呼べないし食っていけない。
ところが、19世紀が終わったあと、なぜかそういう習慣が音楽の分野では定着してしまい、挙句の果てには録音技術が発達して、「再生すること」のほうに重きが置かれ〈聞き手は「いかに巧い再生を楽しむか、見つけるか」〉本来の「音楽を楽しむ」という事は忘れられてしまったのである。

勿論現在でも音楽を自分で習い楽しむ人たちは多いだろうが「一定の教本、流派、Method」にこだわらないで自分の「楽しみ方を追求する人たち」が何人いるだろうか?
そういう方法で認められた演奏家たちがどのくらいいるだろうか?
(そういう演奏家は多分商業的に成功しないだろうし・・・)

グレン・グールドはそのよい例ではないかと思う。彼は自分で納得する方法でしか弾かないし、それを誰に認めてもらおうともしていなかった。
本人に言わせれば「録音技術が発達したのだから、聞き手は同じバッハの一曲でも小節ごとに気に入った演奏を切り取り、繋ぎ合わせて聞けばいい」という事なのだった。
(それは過激だが、良く考えればまったくその通り。)
つまり全部を受け入れてもらう必要などない。という事なのだ。

絵を描いているときなどに強く感じるのは「紙に書いているときが一番重要だ」ということだ。いや極端な話をすればまだ紙に描くまえ、心の中に「こんなものを描きたい」と思った瞬間が一番重要なので、後はただの「作業」である。

音楽は自分が「その曲を理解しようとしている-つまり私の場合永遠に練習ということなのだが-瞬間」が一番重要なわけで、「ピアニスト某のどのCDの演奏がよい」なんていうのはほとんど意味のないことなのだ。

ベートーヴェンもショパンも出版を目的として書いていた。100年後にも「ピアノで弾かれること」を前提にしていた。「CDでピアニスト某が演奏再現すること」ではない。





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