Sunday, October 31, 2004

マスタークラス、その後の感想。

他の人がやる気なくてもいいんだけど、せっかくのチャンスを無駄にするのが私個人としては一番いやなのよ。何かするのに、積極性に欠けるのは結局「中途半端でいいや」ってことですね。
がんばることが好きで、死ぬまで努力することに命を懸ける日本人にあるまじき行為です。

ハワードさんがわざわざ世界中廻って、リストコンクールのために準備する若いピアニストたちのために「講習会」をしているわけでしょ。結構きついスケジュールで。確か東南アジア(シンガポールか香港)ソウル、日本と三日ごとに廻っているはず。
彼が「ああわざわざ日本まで行ってよかった。筋のある若いピアニストにも会えたし、彼らが奮起してくれただけで『教師としてのハワード』は満足だ」-あ、コレハワードさんとの洒落です。始まる前にこの本『教師としてのリスト』について少しお話をして情報も頂いたのです。ハワード博士、仏語も堪能でいらっしゃるようです。(ああ、やっぱり。欧州語一つマスターしないと。)

もともとはリストコンクールの企画でそれぞれの国の団体が、その国の講習会の運営をしているわけです。ユトレヒトの2005年リストコンクールのHP見るとちゃんとコンクール参加者を募集してますよ。私は年齢がもうリミットより上なので今からどんなにがんばっても出られないわけですが。課題曲、それぞれのレベルで何が要求されるか、何てこともちゃんとかかれてます。

***
日本の参加者のテクレベルは結構高いのに(あの、サラリーマンの方。プロ音楽家面目丸つぶれ)

「ああ~私はリストが好きだ。それにあのハワードがわざわざ日本へ?!!!私も講習を受けたい!!」と言う人が全然集まらないのが不思議だ。

私はエチュードかハンガリアン、取り掛かり中のメフィストが最後まで弾けたら自分でも受けるつもりだったのだ。
メフィストの受講者の演奏なんてうまかったけどハワードも「つまんない」という寸前。他の受講者のところで言った「あまりよくないときにはただGoodと言います」のいい例。「good」の一言。

その人がピアノ下手なんじゃないのよ。
その人がつまんなそう~に弾くからつまんない。

まるで私がツエルニー弾いているみたいにやってる。
(私本当は弾かないけどさ、意味わかるでしょう?)
リストにとってのメフィストは「なんなのか」って言うのが無い。
リストを弾くのに「メフィストを選択する」というフィロソフィーがないとダメな曲なのよ。というか、リストの曲は皆そうなのよ。

「自分の演奏家としてのフィロソフィー」

が無いと弾けない曲ばかり。そして、私のようなど素人に「簡単に」見破られてしまうのだ。
リストの曲で「テクが完成した」というのは意外とどうってこと無いのである。
私が演奏家にあまりこだわらないのはそういうこともある。
「だれだれのテクニックは良い」
なんていうのは感情的な芸術を語るにはまるっきり的外れな事である。CDをかって「この人のテクを自分のピアノ演奏に生かそう」なんていう聞き方は普通しない。(いや、密かにすることもあるけどさ、だいたい無駄だという事にすぐ気が付く。)

それでフィロソフィーに戻って...
メフィストの最初のページのレーナウの詩の場面、読んだことある?という演奏。
実は会場であのページの訳が配布されたんですよ。
(それだけでも参加した価値あり。内容は知っていたけどオンライン辞書で訳しただけだったから)
もしハワードが「コレ配って下さい」と言ってなかったら誰がこんなに気の効いた事をしたのだろう?
内容的に完全に18禁(でもないけど、理解できるとそういうことになる。)のこの部分、実はゲーテのファウストからは「抹殺」されている。だから一生懸命ゲーテの「ファウスト」読んでもこの曲は弾けない。
それよりも最初から「レーナウのファウスト」って書いてあるでしょう?

リストがあの一ページをわざわざ抜書きして楽譜に印刷させたのはそういう場面を「理解して弾いてね」という彼の指示、つまり楽譜上にあるフォルテとかドルチェとかに書ききれない部分があそこにあるわけですよ。(音楽家の割には結構いいたいことがたくさんあるフランツ、許してやってね。しかしというか、まったく自分の人生が完全にオージーだったフランツ、あのテーマは共感できるのかも。完成しなかったオペラ「サルダナパル」についても、彼の著作「ジプシーと音楽」にも、そお~んなことが出てきます。)

じゃ、あの受講者がなぜ理解していないと私に判るか?
どうして、というと真ん中のスローな部分にはいったところ、「ああ、そんなに強く弾いちゃダメよ~」と思っていたらあのdolceの記号で、そこまではらはらしていたハワードも思わず、横から「そこはdolceだよ~」と腰を浮かせてしまうほどだったのだ。

あの曲のなかでは一番簡単な部分だけど「一番重要な部分」でもあるのよ。

人間が欲望に囚われてしまうその瞬間が表現されている所。
でも、どうしてよいかわからない、一抹の理性がまだ残っている。
メフィストがそれを読み取り人間に最後の一押しをするところ。
(じゃなくても、なんでもいい。ファウストが初めてグレットヒェンに優しく触れるでも、カップルが暗闇に消えていくとこでもいい。)

それがよお~くわかっている私やハワードにはどんなにテクニックがうまくても、そこで「ああ~わかってない。ちがうんだな~」となってしまう。
全部帳消しになっちゃうのよ。どんなにうまくても。
単純にdolceの見落としじゃないのが明らかになってしまう。
聞いている私が
「指は滑ったけど、ああ~そうそう、そうなのよ~。フランツが言いたかったのは~。」
と気持ちよくなってしまわないといけない。

ハワードが弾くとそういうのはちゃんとわかる。彼はメフィストワルツは「リスト全曲録音しよう」なんてエロ心を持つ前の純愛で弾いているのです。(フランツの書き足し部分も。受講者は全て無視して弾いたけど)

難しいですか?
イヤ簡単です。
でもわからない人には一生かかってもわからないでしょうし、どんなにテクニックを身にところで表現できません。

***
多分最後までそういう「私はリストを弾きたい!」という希望者が足りなくて、あの外国人のハワードのお弟子さんがなぜか日本でも受講したのではないかな?

実はあの赤毛の彼ともお話しました。

彼はハワードに今回ついてまわって、日本だけでなく韓国のマスタークラスにも出席、大使館の招待演奏などもするそうです。そして彼は来年のコンクールにも参加するとのこと。
「じゃあ、コンクールであなたの活躍のために応援しましょう、いかれないけど。」
「ありがとう」
と短い会話の最後に笑顔で硬い握手を交わしたのです。いや、彼がそんなにうまいとはあの演奏からは思いませんでしたけど(ハワードも「練習中だね」といっていた。ネタ切れかも)なんか人間、または芸術家としての成熟度がちがうな~と。
若い男性なのに外国人に話しかけられてもきちんと笑顔で応対、聞かれたことにしっかり答え、最後に握手する時も「しっかりと握る」が出来る。
場数を踏んでるだけじゃない。これから先、少し人気などが出てきたりすればファンのような人たちもでてくるだろうけど、自分を変える事もなく常にリラックス。

息子を外国に連れて行ったのでわかるんだけど、若い男の子にとっても皆と同じように外国はやはり不安なのだ。
それに加え日本のようにほとんど言葉の通じない国。そこで急にそこにいたオバサンに話しかけられて「逃げたい」とおもうか「あ、誰かに話しかけてもらってうれしい」と感じるかの違い。そういう面であの彼と、テクニック的には勝っているであろう日本人の高校生を考えてしまう。
ユトレヒトのリストコンクール。
百戦錬磨の若いピアニストたちが集まる場所。
どちらが「いつもどおりに弾ける」と思う???
赤毛の彼とは、「ア、この子きっと私のことをコンクールの時、思い出すだろうな」「ア、この人、きっと本当に応援してくれるだろうな」と通じるのだが、あの高校生はどうだろうか。
廊下で「良かったね、褒められて」と声かけても「あ・・・」とニコりともしないでそそくさ。
それじゃさ、「有名になる前から応援してあげるよ」という気にならないじゃない。

***
聴講者にしても「私はそんなに弾けるレベルじゃないけど是非自分のピアノ学習のインスピレーションにするために勉強してきました。」って言う熱意があまり感じられない。私の知っている78歳のピアノ仲間のおじさんは凄い熱意ですよ。ライプツィヒまでバッハのオルガンマスタークラス聞きに行っちゃったり。バッハのこときくと何でも知ってる。そして「バッハに浮気したって僕が君のフランツに先にあった時に言いつけちゃうよ。絶対に僕のほうが先に彼に会うのはほとんど決まりだから」と面白い冗談をこかれるのだ。

または、単純に「ハワードのファンです。リスト全曲録音するなんて凄い」でもいい。
私は彼のCDのファンというほどではないですが、彼の「リスト研究家」としての世界的な地位は凄く評価してますよ。

そういう場というかチャンスにめぐり合って来て「凄く幸せー」と感じられない人がいるのはなんかさびしいです。

いや実は他人のことなどどうでも良い、「さびしいです」とか言うと日本人には同情してもらえそうかな?と...書いただけです。メフィストの笑いが聞こえてきます?
私は十分楽しんできました。

オーケストラ版のメフィストワルツの最後にはピアノ版にない「メフィストの笑い声がこだまする」ところが最後にあります。(ベルリンフィルかどこかのが安く手に入ります。誰の録音だか持ってても知りません。)

最後の最後までハロウイーンジョークの10/31/2004. 
ハンガリー出身のフランツ。(爆)
「あの~。吸血鬼ジョーク、やめて欲しいんですけど。それに僕、トランシルヴァニアの出身じゃないんです。」-ふらんつ

いやー、最近、アン・ライスと吸血鬼、美男と・・・というのにはまっておりまして。つい妄想が。

Happy Halloween.

飛行機旅のコツ

こんなことは特に旅なれているとはいえない私ごときが書くことでもないのだが、今回私より旅なれている人に「そんなこともできるのですか?」といわれたので書くことにする。

飛行機旅のとき、特に米国日本などの太平洋横断便のように長距離の場合役に立つヒントを。

まず、自分にとって妥協したくない点をはっきりさせることだ。

私の場合
1.スケジュール、ルートはフレキシブル
2.航空会社は基本的にどこでも良いが実際の飛行機の機種や年代がはっきりわかるもの
3.機内がゆったりしていること
4.安いこと

安いことは意外と一番にあげてもよいのだが、「スケジュールのフレキシビリテイ」と互換性があるともいえるので後で説明する。

1.コレが余裕があるかないかによって精神的なものにも違いがでる。
飛行機は今回も在ったようにチェックインしてからも「キャンセル」はおろか「遅れ」などは日常茶飯事、それよりか、そういう「ハプニングは最初からある」と意識していたほうが良い。
搭乗カウンターでイラ着いて航空会社員と押し問答(怒鳴りあい)している人物はよく見かけるがやはり自分一人が何かイってどうにでもなる問題かどうか考えてみるべきだ。

空港会社は「キャンセルを見越してオーバーブッキング」するのだが、時々予約した人全員がカウンターに現れ、チェックインの遅かったものは予約があるのに「満席です」といわれることが無きにしも非ず。完全に航空会社の手落ちであるが無いものは無い。
こういうとき、スケジュールに余裕のある私は最初に「急ぎではないので明日の午前までに目的地に着くのであれば席を急ぎの人に渡してもいいです。」
とカウンターに言い渡しておく。
もし、定額で購入したゴールド会員などがどうしても、というとき航空会社は私を下ろし、その人を乗せる。私は次回その路線と同じ距離の無料搭乗券とその日の宿泊代、食事代などをもらうのである。
当然次の便には優先で乗れる。ここで主張するとビジネスクラスなどに格上げしてもらうことなども簡単に出来る。
つまり一日程度わざと余裕を開けておくことによって、アップグレードと次回の搭乗券を無料で出来てしまう。(まだ実際にやったことは無いが)

もう一つスケジュールとルートのトリックで大事なのは「お決まりの路線」だけを考慮せずに近隣の空港も候補に入れることだ。
国際線では空港が違っても実際目的地に到着するためのタクシー代などはあまり変わらなかったりする。
日本と西海岸だと一番よくあるのはサンフランかロス路線である。もちろん便は多いが西海岸に行く人は全てこの便で必ずといっていいほど満席。(特に有名航空会社のもの)

ところが今回利用したサンノゼ路線は時間的にはまるっきり変わりなし。
サンノゼはサンフランから車で30分程度。便は少ないがイザとなってサンフラン発になってもたいした違いは無い。サンノゼ便は当然アナ場なので平日便はすいている。
平日便をするのはもちろんだがサンノゼのように小さな空港で乗り換えはシカゴやダラス乗換えと違って心の余裕も違う。

すいているのは出発前日の予約状況をネットで見ても知っているので
「隣に予約を入れないで下さい、または隣の開いている席に変えて下さい」とチェックインの時もしつこく希望を出す。
「保証は出来ませんが・・・」といいつつ、そういう希望のある席の隣は一番最後に割り振るので満席で無い限り空きである。
今回東京便は両隣開き。(コレも凄い)
帰国便は隣開き。
で、エコノミークラス後ろまで見回したところ隣が開いているのは私と一番後ろの人のみ。一番後ろは場所的にトイレやサービスのそばで後ろにも座席があまり倒せないとかいろいろあるのだが、ビジネスクラス直後の席で隣が開いているのは私だけ。
周りは「あの人ラッキー」と思っていたに違いないが、違いは「希望をチェックインの時に伝える」だけで余計なお金を払うわけでもないのだ。

隣が開いているからといって完全に横になれるわけでもないが寝ている人を起こしてトイレに行くのに通してもらうというようなことをしなくていいのでそれだけでも気がらくだ。

2.最近の航空会社のHPには特定の路線に使用されている航空機が明記されているはず。だいたい機種の年代から「ゆったり度」もわかる。
もちろんアメリカンのように「全路線ゆったり」と宣伝している会社もあるがシカゴからのルフトハンザはきつかった。私にとって機内のサービスなどどうでも良い。食事はどこでもまずいし、どうせ10時間しか乗っていないのだ。でも座席がせまいのは困る。私のように日本人としても小さいほうなのにきついという事は「普通サイズの人間を収納するようには設計されていない」航空会社からわざわざチケットを買う必要も無い。
やはりゆとりを持っていれば選択もできるではないか。

3.上と同じ。
今のところアメリカンは短距離国内線を除いて100%エコノミーでもゆったり(昔のビジネスクラス並み)
あの机(というのかな)を倒しても余裕がある。
頭上の荷物収納棚には22インチの持込トランクが収納できるほど。
それからなるべくなら通路側を希望しよう。子供がいて窓際がいいというのはそれでも良いが一人旅なら通路側が便利だ。(どうせほとんど雲しか見えないし)

4.安いこと、は誰でも同じだが、早く予約すればするほど同じ便でも安く買える。
今回一ヶ月待ったらやはり150ドルほど損した。
もちろん微妙なスケジュールの変更などは4月も前にするとあるのだが700ドルと860ドルは結構違う。
ただ、長期の予約期間を置いて割引航空券を購入する場合、「制限がどの程度なのか」よく理解して購入する必要がある。
変更料金だけでなく場合によっては不幸以外の変更が出来ないものもあるからだ。
制限のない航空券は簡単に便の変更が出来る変わりに倍以上の値段を覚悟する必要がある。これらは主にビジネス旅行者が購入するのである。
割引航空券の場合、予約をしたからといって空港に到着するまで何も確認をしないのはやはりいけない。最初に述べたオーバーブッキングの場合、リコンファームしていない「割引券予約」はやはり空港会社としては「通常価格の頻繁に利用するビジネストラベラー」よりプライオリテイが低いのは人情としても理がかなっている。
では、どうすればよいか。
最初から、座席指定。3日前には「座席確認」と銘打ってコンファーム。当日朝にもさらに「スケジュールの変更はありませんか?」と銘打ってさらにリコンファーム。チェックインカウンターには二時間前には到着し「希望の席、または隣に空席のある場所」それから実は余裕があるのでオーバーブッキングならギブアップしても良いことを伝え、万が一その際には「ビジネスクラスアップグレードと次回の無料搭乗券、食事宿泊」を条件にすることである。


結局、余裕のある便でキックアウトされることもなく済んだわけだが、往復900ドル弱の割引券で往復とも二席独占。ビジネス、ファーストクラスでもそんなに広くないから悪くは無い。
帰りの便はしっかり熟睡。
快適な太平洋横断便だった。

久しぶりの日本

やっと帰国4日目にして時差ぼけから完全に開放されたような気がする。

今回、滞在中はボケたりだるくて困ることがなかったのでそれは良かったのだが帰ってからが、「なぜこんなに・・・?」と疑問に思うほど酷かった。

実際のスケジュールは
10/21朝サンデイエゴ発。チェックインした直後出発約二時間前になっていきなり便がキャンセル。
予定の機種の整備不良で代替便は一時間遅れ。(コレがスリルあった。国際便に乗り継ぎなのにほとんど余裕なし。結局6-7-人いた日本行きの人を考慮して国際便は30分待ち。)
午後一時過ぎ離陸。日本時間の10-22午後3時20分着。

日本に到着後はそのまま日本のペースに。
翌日も少し早めに起床したものの、疲れはまったくなし。一日外出、夜12時過ぎ帰宅、そのまま妹と談笑、午前2時就寝。

10/23土曜
一日外出。前日訪問した古くからの友人夫妻と銀座でおち合いその後夫妻宅で五時過ぎまで過ごす。その後池袋でピアノ会。会の後食事などをしてやはり12時半過ぎ帰宅。

10/24日曜
一日外出。前記のハワード講習会。その後また友人夫妻宅へお邪魔。私のような人物が13年ぶりに(いや14年ぶりかもしれない)突然現れても毎日付き合ってくれる「ありがたい本当の友人」である。
この日も東京発ほとんど終電。午前二時近く帰宅。

10/25月曜
父と時間を過ごすため予定はなし。従姉が昼食に訪問してくるのみ。なんと、父も従姉もゆっくり話したりしたのは初めてとのこと。因みに父は78歳。従姉は53歳。お互いに鎌倉と横浜に30年以上も在住していながらろくに付き合いがなかったのだ。
そういう私も今年春に従姉がサンデイエゴに訪問してきて初めてじっくり語り合ったのだ。
でも血の濃さというか「2人ともまるで姉妹のごとく」音楽や芸術に対する姿勢がそっくりなのにひたすら驚嘆。追求の仕方もまるで同じ。
父は最近音楽に目覚めて結構音楽談義を楽しんだ。
夕方従姉が別れを告げた後父は昼寝。私もそれから出かけるにはかなり遅かったので昼寝。中学高校時代の友人から電話。
ひとしきり話した後翌日会うことに。

10/26火曜
実質的に滞在最後の日。ギタリストである友人(夫)が京都に演奏旅行に行くため東京駅でおち合い別れを告げる。身軽な彼らのこと、米国に来ることもあろう。夫人とともに軽い昼食。話は尽きること無いながら3時過ぎ彼女とも別れの抱擁を交わす。
今回まるっきり日本の店で買い物をしていないので「西武優勝セール」中の横浜そごうへ。面白いもの、素敵な洋服ブーツなどは山ほどあるのだが、米国とは桁違い。あきらめる。息子のために車のおもちゃとずっと欲しがっていた子供用の箸箱セットだけ購入。
隣にある丸井ではチュールのストールにマラブーのボアが縁取りされたものを購入。幅広でも、半分に折ってスカーフのようにも使用できる。コンサートの時などいつもクロのパンツにクロのブラウスなのだが、コレ一枚で豪華に出来るので「投資」として・・・
それから父のために薄いウールのスカーフを。
若者向けの店でイケメンのおにーさんが丁寧に応対してくれる。彼のモデルしていた黒いピーコート(日本でもはやっている)にあわせるようにベージュのものを購入。
翌日父に「最近若者が来ているツイルのピーコート風ジャケットを買ってコレをあわせるとモダンで、父上にも似合うのではないか?」と訊ねると「既に持っている。」といって見せてくれる。
プレゼントを渡すと「おお、お前からコレほどセンスの良い贈り物をもらうとは・・・」と感激してくれる。
贈り物と言われると恥ずかしい。父が実は「滞在費」と称し小遣い餞をくれたので一応、受け取ったと言うしるしにそのぐらいはしないといけない。
その後地元で中高時代の友人と待ち合わせ、高校時代の友人の経営するバーに繰り出す。
11時過ぎにはもう一人加わり昔話に花が咲く。
午前3時過ぎ帰宅。実はこの日成田から出発するのに荷物などさっぱり詰めていない。
帰宅後、かばんに詰めるものなどを分類するのみ。数時間仮眠。

10/27水曜
結局6時起床。七時半に勤務にでる妹に別れを告げる。
前日に計画していたまだ自宅に置き忘れていた二本のギターを、米国に送る手配をしようとして見積もりを取る。
なんと、保険配送料はあわせて一万円程度なのに特別ダンボールが9万8千円かかるという。
ふざけている。「あちらで新品のギター購入してもそんなにかからない」とキャンセル。次回息子を連れてきて、プロ音楽家のようにギター用に航空券一枚余計に買ってもそれより安いはず。まったくバカにしているとしかいい様が無い。
大して荷物は増えていないので手荷物二つのみ。大きいトランクは無し。(それ一つでも良かったのだが駅で階段の上り下りがあり、交通機関の乗換えなどで歩く場所が多い日本では私一人では不可能)
今回もし楽譜がなければ本当に22インチ機内持ち込みトランクのみでも大丈夫だった。
ジャケットは一枚持参したものの10度以上の気温ではほとんど必要としない。日本人は皆コートを着ていたが私はワイシャツ一枚でも全然寒くない。一応セーターはバッグに入れておいたが着ること無く。少し歩くと汗をかくので真冬の欧州でもない限りジャケットは必要ない。

父と昼食にピザ(コレだけはわざわざ日本で食べたくなかったが父が所望したので)そして駅まで父のフェアレデイで送ってもらう。日本のフェアレデイも今は2シーターだ。GPSなどまで着いている。スペースシップじゃあるまいし。半径50キロの場所で一生生活するのになぜ必要なのか?と質問すると、日本の道路は迷いやすいから、とのこと。一理ある。

3時前成田着。成田エクスプレス。高い。今回感じたのは毎日交通費が5000円近くかかっているのだ。東京往復、終電で到着した後のタクシー割増料金、少し離れた場所に行くタクシーなど。
どうも車に慣れているので、荷物を持って歩くことが非常に億劫である。歩くだけならいいのだが。

空港で手元に在った日本円でデジタルカメラを購入。帰宅してみると特に免税でも安くなかったが、日本円を持っていても仕方ないので「為替料金」とあきらめる。
日本で買い物して安いと言うものはありえない。楽譜も二倍近い値段。iPodも米国では税込みで300ドルほど。日本では4万円近く払った。(同じ値段じゃない!!!)
ブーツは軒並み3-4万円。こちらではスチュワート・ワイツマンという高級ブランドが買える。
為替は一ドル106円とか言っているが、100ドルで買えるものが米国では山とあるのに日本ではろくなものが買えない。実質一ドル360円である。未だに。(缶ビールは安くなってたが。500円だまで二本買えたのは嬉しかった)

思ったのは若い女性が可愛く、背が高くなったこと。男はあまり変わってない。相変わらず日本人は皆、申し訳なさそうに歩いている。なぜなのかさっぱりわからない。

父は相変わらずずうずうしく生きている。母が亡くなった今でもなぜか母の母校の理事だかなんだかを頼まれてやっている。本人は事務的な役目が終わったので(母の母校は新校舎を建設したり土地を買収したりするのに父のような企業経営に明るいものの援助が必要だった)辞めるつもりだったのに、米国人の校長に今度は「教育プログラム担当理事」をやってくれと依頼されているらしい。
私の滞在中も何度か電話があった。
父は旧専門学校の卒業証書さえ「危うい」程度である。ところが、真理を見抜く目と建前でごまかしたりはしないので、彼の言うことは誰も誤解することが無い。「額面どおり」なのは多人数がいるときやはり日本でもわかりやすいのだ。
そういう点は私も受け継いでいる。父も私も「多文化、他文化」のなかで生活しているので「本音」をきちんと表現する以外生き延びる手が無いのである。
それで嫌われても私たちは気にもし無いし、してもはじまらない。その代わりそれに価値を見出してくれる人たちには私たちも力の限りを尽くすのである。

10年ぶりに父にあったが変わっていなかったし、老け込んだと言う感じもしないのは凄い生命力というしかない。未だにゴルフでクラブの一、二をトーナメントで所属プロと競り合ったりしているらしい。

妹はと言えば39歳。自宅に住んで父に朝駅まで車で送らせている。家をでる3分前の7時27分になるまではお出ましにならない。お姫様なので朝のトワレは念入りになさる。魔法瓶の湯が空になっても「空だから出ないのよ」というばかり。自分で沸かして入れようとは思いつきになら無い。
それだけではない。父が妹の洗濯物を彼女が出かける前にして「差し上げているのだ」とのこと。まるで爺やである。でも彼女は小さいときからマリーアントワネットのようだったので仕方が無い。というわけで現代の日本人男性にはフェルゼン伯爵ほど甲斐性のある男性はいないのか、理想が高すぎると見えて未だに一人である。
(いや,要領が悪いんだ。私のようにいい男がいたらネコ被ってでも自分の物にしてその後教育すればよいとは思いつかないらしい。ちなみに私も夫に洗濯・料理をさせている。)

サンデイエゴに到着すると出発の日と同じくまたもや雨。
下の息子がかさを持ってお出迎え。彼にはサンノゼで買ったぬいぐるみを渡してやると大喜び。
「サンクス。マミ~!サンクス、フォー・マイ・トーイ!!!」
この子は自分の感情に非常に素直である。
いつもながら無言の主人。家に着くとカプチーノを作ってくれる。
家族のお土産を開いて終わり。
次回は家族全員で日本に観光に行きたいものだ。上の子は東京が気に入ると思う。


Thursday, October 28, 2004

ピアノ マスタークラス

10月24日(日)日比谷スタインウエイ松尾ホール
レスリーハワードによるピアノマスタークラス

に出席した。

松尾ホールは米国の感覚から言うとホールというより「スタジオ」という大きさ。キャパは80人程だと思う。実際に来日直前の地元スタインウエイディーラーのコンサート会場よりも小さかった。

まず全体的に感じられたのは受講者自身も聴講者も「マスタークラス」というものなのがナンなのかよく理解していないように思われた。
主催者側からは初めて出席するものに対しての「心がけ」等の注意書きはなし。

もちろん常識として「マスタークラス」が一般的に知られている欧米ではその必要もない。マスタークラスに出席するレベルのピアニストたち、または音楽愛好者たちはすでにどういう形式なのかは大体わかっている。
ところが、今回かなりの高レベルの課題曲にもかかわらず「生徒によるジョイントコンサートみたいなのでしょう?」「生徒たちが出てきて課題曲を演奏するんでしょう?」というぐらいの認識。

マスタークラスで肝心なのは講師の「批判批評、受講者による質疑応答」なのだ。

受講者はピアノテクニック的には文句の付けようが無い準備度、しかしながらそれだけのレベルでありながら本人たちからの質問はまるで皆無。ハワード博士が一方的に喋っているだけ。

日本では「講師の言うことを拝聴する」のがいいことで、受講者は黙っているだけという事が大学や企業の講習などでも定着しているのかもしれないが、欧米では「黙っている受講者はフマジメで参加する意思が薄い」「あまり準備をしていない」「無理やり参加させられている」と理解されても仕方ないだろう。
それから質問をしないのは「講師の言うことがつまらないから、レベルが低いから」という事もありうる。

どちらにしろ、欧米の講師にしてみれば「ナンだ、こいつらやる気があるのかな?」という感じに取れないことも無い。受講者はあまり緊張しているというほどでもなかった。

いや、英語が出来ないから・・・は理由にはならないはず。一応通訳がいるのだし本当に自分が何かを得たいと思うなら自然に日本語でも
「アレ、ここは自分でもこういう方法やこういうので試してコレに収まったんですが」とか
「いや、実は私の教授もそういっていたのですが私個人としてはこの解釈のほうがこう理由で、すっきり収まるかな?と」
というような課題曲なりにハイレベルなデイスカッションを受講者と講師の間でして欲しかった。特にある部分でリストの指示自体が通常のピアノ教育における解釈と大幅に異なる所があって、受講者も聴衆の理解も多分受講者の弾いたとおりだった箇所があった。
それを受講者は説明せずに「ああ、そうですか」とまるで問題にせず鵜呑み。
そこで、「通常だと繰り返し部分はわざと解釈にヴァリエーションをつけるのですがなぜリストはまるっきり同じ解釈を強制しているのでしょうか?」
とは誰も聞いてくれなかった。それはやはり弾いた本人にしか出来ない質問ではないだろうか?
ある意味でマスタークラスの受講者は「全員の代表であるのだ」という意識を持ってもらわないと、活発にならない。
また、それがリストのマスタークラスでも期待されていたのだ。
個人練習ではなく「ライバルやまるっきりレベルの違う聴衆の前でレッスンする」というのがリストが初めて導入したピアノ講習のスタイルである。
現在ではその「リスト伝統」に従って他の楽器でもマスタークラスというと、同じような形式で開催されているのだ。
せっかく現代のリスト伝統後継者とも言えるハワード博士が来日しているのにそういうことも理解していないと味も素っ気も無いではないか。


マスタークラスでは「自分なりの解釈をピアニストとしてある程度完成させられる」というのが受講者の条件であるわけだから、そういう質問が出ることが前提のはず。
受講者は課題曲をやっていても「あの曲ではコウいうテクニックでうまくいくのですがコレも同じでしょうか?」とかそんなレベルの質問をすることによって聴衆も恩恵をこうむることが出来るから、聴講に参加する音楽愛好家がたくさんいるのである。
ところがそれはほとんど無し。
一名ハワードについて廻っている外国人の生徒は質問していたが、さすがに毎回顔をあわせているので改めて質問する必要がなかったと考えられる。その点、日本人の参加者はハワードのそのときが初めてという事が会ったはずで「いつもと違う先生から違うことを習う」という姿勢も必要だ。

主催者はハワードにも参加者にもどういう出版社の楽譜を使用するのか連絡していなかった。
リストコンクール、研究者の間では当然のごとくいわゆるブダペスト版、「Editio Musica Budapest :Liszt Klavierwerke」が基本、前提となるのだがそれらは徹底されていなかった。

受講者でもその版を使用していない人がいたし、聴講者は様々な版を持参。当然ブダペスト版には草稿を基本にした曲が収録されているわけで受講者の弾いた部分が収録されていない本を持参していた人たちがほとんど。
ハワードはそのリストが書いたコメントに忠実に弾かせているのでそれが書いていない版で練習していったと思われる、あるいはリスト特有の表現-コレがかなりあるんだ-を確実に弾いて行かないと注意を受けることになってしまう。
それが書いていない楽譜を使用していては元も子も無い。
それでは講師のコメントを聞いても何を言っているのかさっぱり理解できない。

リストの曲はそういうことがあるからハワードがアレだけ時間をかけて最新カタログを編集しているのである。既に出版予定日を一年以上経過しているが、ハワード博士本人に質問したら「一冊ではなく二巻になる予定なのと、数曲実際の草稿入手に手間取っているものがありそれが完全に終わらないと出版できない」との事。簡単なものは今年9月にイタリーから出た、との事。

マスタークラスでは受講者、聴講者がやはり「講師の専門分野に詳しい」というレベルであることがより望ましくそれだと活発な講習結果になるだろう。

通訳嬢は海外留学の経験があるらしいがかなりの初心者といわざるを得ない。自己紹介の通訳程度なら問題はないのだが、やはり高レベルの楽典の説明などは勘違い、間違いだらけ。
最初は一回「訂正」してあげたものの(野次ともいう)大体、私がわかればいいのだしもともと自分でわからないところは直接講師に質問したのでその後は黙っていた。

通訳が必要なのはそういう「長6度」と「7度」の和音がどうして違うか?なんてあたりでそれを講師がリストの「音楽的な意図」と「楽典の理屈」とともに説明しているのになんだかあやふや。
彼女はホカの楽典に関するところは日本語の音楽用語を使用していたのにAugmented(長=シャープになるところ)という単語が理解できていないので肝心な部分は全部省略。あそこまで堂々とやられると文句をつける気もなく、わかっているのはハワードと私だけでもこの際関係ないか・・・となってくる。

ハワードは世界各地でマスタークラスを何度も開催、当然受講者以外からも休み時間等に質問などを受けることがあると見えて私が休憩中に歩み寄っても、向こうから「どんどん質問して。」
おおーやはり。と聞きたいことを全て聞く。私の持参していた本を覗き込み「ああ、コレは役に立つよ。良い本だと思う。」「今度この本の内容が英国リスト協会の会報に掲載されるよ。入会の手続はこのメールにすると送ってもらえるはず」と教えてくれた。
そのなかで版に関することなどはクラスが始まる前に会場でも紹介説明。
少なくとも他の人にそのぐらいの情報はもって帰っていただけたので私も質問した甲斐があったというものだ。

欧米の大学では有名音楽家によるマスタークラスは当然のように一般にも聴講(うまくいけば受講も)開放されるので特に主催した大学の学生でなくてもそういう機会に参加できる。

マスタークラス自体が様々なレベルで開催されているのでいろいろあると思うがせっかく、テクニック的にはかなり高レベル、一流の日本の学生たちが受講して、世界的レベルの講師が教えているのに、なぜか「ここはコウひきましょう」「ハイ」というやり取りを見てもあまり面白くない。
いわれるままに弾くだけのレベルの生徒はやはりマスタークラスではなくリストの言うところの
「君のレベルは音楽学校に行っていわれるとおりに弾け」
となってしまう。
リストは「こう弾け、なんて教えたりは私はしない。私はピアノ教師ではない。でも音楽家としてどうすればより高度な表現を出来るか?なんていうのなら喜んでお手伝いする。」
というのが彼の信念。だからお金も一銭も取らなかった。
「音楽学校で4マルク払って君はきっと新しく得るものは無いだろうが、ここならただで山ほど学ぶことがある」というリストの言葉は「当然レベルの高いピアニスト」だけに講習参加を許可していたからなのだ。

午後一番で非常にうまい少年がコンサートエチュードを弾いたのだが終始ペダルがめちゃくちゃ。(日本人はペダルの悪い演奏者が多い。遣いすぎ)
ハワードは
「君にペダルを教えたのが誰だか知らないけど銃殺されるべきだ...」
whoever did this (何でも良い)has to be shot...
という表現は結構英語で一般的に使われる。まるっきり役に立たない、という意味。つまり、テクニック的にも解釈、表現としてもなっちゃいないいいとこなし、という意味。
通訳の人はわからなかったのか、一言もなし。マ、SHOTということばが日本語だと強すぎるなら
「ペダルを教えた人は全然理解してませんね」
といっても意味は通じるはず。
そんな、気の利かせ方まで出来ないと外国語の通訳は成り立たないのである。

そしてなんとも講師に一番失礼だったし、同じ日本人受講者として恥ずかしかったのは最後、リストのピアノ曲でも代表曲である「ロ短調ソナタ」の演奏が終わり、ハワードの講習が始まる直前大量の聴衆が立ち上がり退場したことである。
講習会で講師の講習前に退場というのは演奏会で中途退場と同じレベルの侮辱である。
ハワード氏も苛立ちを隠すことなく
「何か私の言ったことでお気に召さないことがありましたか?」
と、ピアノから立ち上がりガン飛ばしたが、通訳嬢は完全無視、主催者も「席について下さい」と注意もしない。
アレはかなり失礼だと感じた。
通訳嬢はそういう時にも、会場を仕切るだけのガッツが無いといけない。もちろん主催者が事前にマスタークラスとはこういうものと宣伝して、コンサートではないから、講習中心、したがって講師の喋りがほとんどでそれが耐えられない人は受講しないでくれ、とはっきり注意書きを書くべき。(もちろん常識ナはずだけど明らかに誰もそう思っていなかったわけだから。)

もう一つ見ていておかしかったのは受講者、つまり生徒が舞台に後から出てきて、先生であるハワードには「お願いします」も一言も何も言わず(こんにちわも、ただの握手もなし)、先生にお尻を向けて聴講者に深々とお辞儀。
リサイタルじゃないんだから先生にしてみれば「お辞儀の方向が違うんじゃないの」と思ったはず。
最初に先生にお辞儀、お願いしますと日本語でもいいし「ハロー」と英語でもいいから挨拶して、それでもお辞儀をしたければしてもいいけど。
かれらが深ぶかとお辞儀している間先生は待っているわけでなんか滑稽だった。
礼儀っていうのは日本人は尊重するはずなのになんか違うな、的外れがあまりにもコミカルなのにハワード以外気が付かないのがおかしい。

あの受講者たちは芸大の先生とかには行ったら「ぺこぺこ」するわけでしょう?でも世界的リスト権威指導者にせっかく講習を受けるのに「真っ先にお尻向けちゃう」
滑稽さ、私には複雑に感じました。
欧米ではよほどのことが無い限り腰からオリ曲がるほどのお辞儀とかしないし、どんな大先生が相手でも大体、歩み寄って少しお茶目に"I'll do my best. Please be gentle with me."とか凄く丁寧にしたければ"I'm so honored to have this chance."と握手をする程度でしょう。それでいいと思う。でもこちらの気持ちは伝わるし講師に対しての尊敬の念も通じるはず。
なんか、無言でピアノに座り始めても悪いことは無いけど、個性がないというか。一応芸術家の卵なんだから「その場ステージを自分の物にするカリスマ性」見たいなのが少しでも見えると「おお、やはりレベルが違う」と私のような人間でも納得する。

ハワードも
「僕は普通だったりあまりよくなければgoodというだけですが今のは本当に凄かった。良かったと思いますよ。わざわざそういいたい」という演奏が一曲あった。
私も、その前の二曲とは格がちがう、コレだけ聞いていたら先生はほとんどいうことがなかっただろうと思ったらやはりその通り。リストの解釈に関して数箇所リマインダーをしただけでかなり完成されていた。
その高校生の彼が2年後、3年後にパフォーマーとしてテクだけでなくステージプレゼンスをどうやって見につけるかというのは、やはり本人の経験によって決まると思う。そのとき、彼が相変わらず、芸大の先生のところで「ぺこぺこお辞儀、黙ってハイハイ」と次の三年間やっていてそういうレベルになれるのか私にはさっぱり判らない。

全体的に受けた印象は「ハワードはピアニスト本人の解釈を基本にリストの指示をリマインドする。そして具体的な方法を実践的に教える」という方式。ある意味で「非常にリスト的にジェネラス」だと感じた。
自分も少しうまくなったら彼の師事を仰いで見たいと思わせてくれた。
解釈としても自分が想像していた理想の演奏と大きく違う部分はあまりなく(確かにリストのコメントを熟知している私には自然な事かもしれない)これから先、自分でリストのピアノ曲を練習する時にもこの方向で勉強していけばよいのだと確信できた。

一日6時間5千円は時間割の値段にするととんでもないバーゲン価格。とてもいいチャンスにめぐり合えてよかった。

Wednesday, October 13, 2004

Yahoo!性交渉禁止って誰が決めるんだ?

Yahoo!???? - ????

中学生の性交渉を禁止するかどうかをめぐり議論が交わされたそうだ。

疑問がある。

大人が未成年者を相手にした場合、イタズラも含め(この単語自体ふざけている)厳しく処罰されているか?

中学生同士がした場合、どうやって罰を与えるのか?
つまりことが起こった後で罰を与える意味があるのか?

15歳はダメで16歳はよい、と政府や自治体が判断すべき問題か?

それよりも「親はどこだ?」


****

この議論の出発点は10代のHIV感染が急激に増えていることが原因の一つらしいが、本末転倒しているような気がする。

HIV感染を防止する方法教育を徹底することのほうがまず大事ではないか。
「何があってもコンドーム」「例外なし」
という事よりも先に条例で禁止しても感染数は減らないと保証する。


それから中学生の性行為を禁止するのではなく、親にきちんと性教育をさせることも先に必要だ。

親は何もしない、知らない性教育も出来ない、コンドームとHIVの説明も出来ないからといって子供たちがセックスしないと言うわけには行かない。

社会全体が「セックスは存在しない」ような幻想を完全に棄てることが必要だ。

***
10代のHIV感染だけではなく日本人のHIV感染率は絶対に報告されているより高いはず。10代に関わらず、大人でも避妊やHIV,STDに関するコミュニケーションが相手と出来ないのに、中学生に何が出来るのだ。

まず大人の社会が「性をきちんと扱う」という姿勢を確立しない限り、女性の妊娠中絶、意味のない悩み、子供や未成年者に対する性的虐待やモレステーション・性犯罪、一般のレイプ・痴漢などの性犯罪はなくならない。

大人がそれをきちんとできれば、性教育という事ではなく、「自分の身を守る」方法としてコンドームの使用や身元や病歴の判らない相手を交渉を持たないという事は、自ずから明らかだと思う。


「高速道路を横断したら逮捕する」とか言わなくても誰もそういうことはしないでしょう?
中学生が山手線のレールを歩くことを禁止します、と条例で決めなくても誰もソンナコトしないでしょう?
それなのに、なんでHIVに感染しているかもしれない相手と無防備な関係を持つのか別に中学生じゃなくても説明一回すれば理解できると思いますけど?




Tuesday, October 12, 2004

AnneRice.Com: FAQ 作家自身によるコメント

AnneRice.Com: FAQ

ビューテイシリーズの原作者自身によるコメントが彼女のオフィシャルサイトにありました。

私が感想の中でコメントした「本当の流血や残酷な暴力が無い」というのはやはり彼女自身の意図的な展開であることが説明されてます。
それからバイセクシュアリテイに関しても、最初から性の区別を超えたところを基点にしているようなのでそれ以前の、というか、一般的なヘテロセクシュアルの概念を絡めたくなかったようです。

なぜ、このシリーズを書いたのかというのは本の前書きなどに在るとおり、やはり
「読みたいと思うエロ本が無い。」

女性は特にコレを常に感じているでしょうね。ファンタジーというものは誰でも持っているものですが、自分のファンタジーを再現してくれるような本が意外に少ない、というより皆無。(ロマンスノヴェルのシリーズでも納得できるものはあまり無し)

出版はやはり困難だったようですが、彼女は作家として「本の形として残す」事にやはり重要な意味を見出していたようです。
そして、ビューテイとほか二つのエロテイカを完成して、目標は達成したとのことです。

ある意味では私があまり評価しなかった「登場人物の多さ」は一巻ごとにヴァラエテイを与えるものだったと考えることも出来ます。単純にヴァラエテイというだけでなく、実生活では「一対一の関係」に束縛されていることがほとんどなわけで、その意味でそれも「ファンタジーの一部」と理解すればよいのかもしれません。

その後、様々なサイトで読者の感想、推薦文を読んだのですがやはり私と似たような感想が多かった。
1.ビューテイの心理、キャラクターの説明がほとんど無い
2.トリスタンとローレンの説明が多い(けど、女性はみなコレはエンジョイしているみたいです。私も同感)
3.なぜに例外なく皆バイセクシュアル?これは読んでいる人が固定観念から聞いているのではなくて一般のなかでも、自分の心理の根底にあるものをもっとこの本のなかで「明かして欲しい」という欲求からだと思います。
でも、作者本人のコメントによって一応なぜ説明されなかったかはわかりました。
4.全体的には満足。私と同じように3冊3日間で読破した人がほとんど。それから、登場人物が多い割に章の構成がわかりやすく混乱することが皆無だったのも早く読めた原因。エロ本で頭使うのはやはりダメです。
5.面白い感想。
 「長所-面白くて途中で本を閉じることが出来ない」
 「短所-途中で止まらずにいられない(!!!)」
 「注意-オーデイオ版は車の中で聞かないように。(ウインク)」
この感想、笑えました。この三冊を象徴している。

あるいは自分のサイトでコレをテキストに「英語表現の解説」をするとか。そうすれば、邦訳できにくい微妙な表現を英語のまま理解することが出来るし。 (多分邦訳はかなり意訳されているはず)
ちょっと検討してみます。

いや、なんと邦訳が出ていますね。それも文庫本。英語版より安い。日本に行ったら買おう(というか、アマゾンでオーダーして実家に送っておこう。先に原作を読んだ私としてコレは非常に興味深い。あれだけお上品なエロ本の英語を日本語でどれだけ単純にならずに表現をしているか。英語から日本語にするときに困難なのは丁寧語謙譲語、そしてこの本だと命令語だとおもう。英語だと男女によって表現が変わったりもしないので、女性が命令するときと男性が命令するときも基本的にマッタク同じ表現になる。ところがそうは行かない日本語。
特に三巻目のローレンの語りの部分は楽しみだ。

「ローレン、あなた本当に結婚の申し込みのためにいらっしゃったんじゃ・・・」
「申し込み?姫、申し込みだって?」と私は言い返した。「私は命令するために来たのだ。」

なんか、「命令」という単語でさえローレンと確固たる調子が出ないんですよね。
第三巻は翻訳者のスケベさを知るよいチャンスです。

というわけで、邦訳は日本から帰国する10月末には読破できるでしょう。帰りの飛行機で読みます。

Sunday, October 10, 2004

眠り姫の第二巻、と最終巻

半分は結構つまんなかったのにいきなり新しいキャラクターの章が面白かった。

囚われの王子はその名もトリスタン(もう少しでこの名前、上の息子につけるところだった)

実は本の半分過ぎに彼が幾つかの章で自分の心理を語っているのだが(ビューテイの心理は第三者によって描写されている)これらの章が非常に面白かった。
トリスタンだけでなく彼を取り巻く人物も同時に描写されてこのまま発展すると面白いと思わせるほど。

相変わらず「お仕置き」は多いのだが、それを気にせずに彼の語り部分を読んでペースが後半戻った。主人公のビューテイのキャラクターが結構薄いままなのが気になるが2冊目の最後に来てトリスタンのキャラクターに読み手が引き込まれるほど作者が彼にフォーカスしたという事は彼はビューテイと同格かそれ以上という事だ。
そしてトリスタンが自分の心理の謎を解き解いた直後になんと今度は「奴隷狩」にあい外国にビューテイと共に計王子たち3人王女3人とともに今度は国同士の取引の人質として引き渡されます。という事で、明日、遅くともあさってには「They lived happily ever after,,,」という事になるのでしょう。

肝心のエロ本としてのヴァリエーションは特に代わり無し。トリックも何も無し。
トリスタンの語りに入るまでは省略して筋だけ説明してもらえれば後は想像できる程度。というか、エロ本で「想像できてしまう」のではあまり読んでいる意味が無いことになってしまう。自分の考え付かないほど卑猥で淫靡な行動に登場人物に思いついて欲しいのだが残念ながらそうは行かない。70年代のバンドのご乱行を読んだほうがよっぽどショックを受ける。

ただ、相変わらずバイセクシュアルアカウントが多いというか最初に書いたとおりほとんど全ての登場人物が「強制されなくてもバイセクシュアル」なのが、少し興味深い。相変わらずそういう設定にしている意図がよくわからない。もしホモセクシュアリテイが理解できない人には多分楽しめないかも。それから、「安心感を最初に約束する心理的心使い」は変わりません。不安になると楽しめない人がいるからかもしれない。というわけで第三巻に入ります。10/8

残念ながらトリスタンの語りは 

最終巻にはありません。
その代わりに前巻、奴隷狩りの前日に城から脱走して本当は競売にかけられるはずだった背が高く強健な王子ローレンが最終巻の奴隷自身の心理(何が起こっているかを彼の目を通して)を語ります。

ほとんど交互にビューテイの描写(相変わらず第三者)とローレンが出てくるのですが、ビューテイの章は飛ばしました。(後で読みます。)彼の語り口のほうが面白い。この最終巻、やっとトリックが少し変わってローレンの章で「おお。」とうならせるものが・・・

彼の語り口はさっぱり、淡々(エロ本のときコレが結構効果ある。)とスケベっぽいことを説明していくので面白い。一冊目の2冊目にも彼に語らせればよいのに、と思うほど。もう前の二冊でさんざん屈辱とお仕置きを受けている奴隷たちなのでビューテイや他の3人は「自分の役をある意味で積極的に受け入れて」いる心理の変化が描かれています。
特に前巻の最後ではハンサムなご主人と恋愛関係になったトリスタンなど語り手もビューテイ(つまり読者もそれに近い心理だと作者は前提しているらしい。)に「そんなに簡単に心をゆだねられるものなのか」と言わせているので、「幸せに暮らす」前に心理的に何か変わっていくんでしょうか?

そこで、また脱走王子のローレンの章になるわけですが、もともと体力もあり強健な彼、仲間のトリスタンや先に囚われになっていた奴隷たちの間に連れて行かれ自分の番を待つ間、新しいハンサムなご主人を何を思ったか突然言葉で個人的に挑発するのです。(ここまで当然、奴隷は主人に話しかけるどころか声も出してはいけないと言うルールがしつこく説明されている。)

これが、プロ野球の「キャッチャーによる心理戦」と同じ方法で行われるのがちょうど書いたばかりなので興味深いです。きっと作者もそれが絶対頭の中にあったはずです。
完全にアメリカの文化。
キャッチャーは横目にバッターを見ながらバッターだけに挑発または屈辱の言葉をかけます。バッターは当然ピッチャーやランナーに集中しているわけですから、キャッチャーに「ガン飛ばす」ことは出来ません。こういう挑発は無視して過ぎ去るのを待つのが「大の男」としての対応です。
バッターと同じくご主人は他の奴隷やそれをお仕置きする召使たちを監督しているので足元にいるローレンの目は見えません。態度や言葉に出すと廻りにわかってしまうので奴隷に言われるままになります。周りで働いている召使たちや奴隷たちからはなれて立っているご主人とその脇に膝付いておとなしくしているローレン、のように見えるのが、実はローレンは歯を食いしばったまま周りに聞こえないように主人を次から次へと挑発しているのです。ご主人は当然自分の事を言われているので動揺を抑えようと苦労しながら無視しようとするのですが不敵にもローレンが「ご主人の生物学的機能」について疑問と共に直接挑発したのに耐えられず周りに聞こえるほどの大声で彼の言葉を制します。

で、ここから前の二巻だとローレンは別の部屋に連れて行かれてさらにお仕置きを受けるのは前にも説明しました。そして、すでに肉体的試練は乗り越えてしまった彼は半分それを「退屈しのぎ」のような心理さえ見せるのです。到着した時に他の奴隷と共に「ルールの説明」を受けた部屋に鍵がかけられ、ご主人は鞭より幅広長い皮のストラップを取り出し彼を鞭打つ・・・とはならなかったんですよ。この「服従のレッスン」という章では・・・背は高いがどちらかというと細身でエレガントなご主人とどこに行っても人一倍頑強な自分を比べてみるローレン
扉の前で膝を付きながら内側からかんぬきのかけられた戸とひとけのまるで無かった廊下を思い出す彼。

(妄想して楽しみましょう。多分皆様の妄想を上回る内容でもないと思います。)

でも、なぜに・・・皆・・・

これが、ローレンレクシウス(ご主人には名前があった・・・)も絶対にヘテロだとこだわっているともっと面白いのにね~。
どちらかがそれにこだわって抵抗するとか。抵抗する男が見たいというのは私だけなのだろうか。

もう我を忘れて抵抗するというシーンが無いのが残念。
そういうのを男に演じさせるとエロ本として楽しめるんだけど。
男が読んでも「ああ、自分じゃなくてよかった」と思わせるほど不安じゃないとね

最初からバイだとわかっていると興奮度半減。私は個人的にはヘテロはバイセクシュアルのヴァリエーション(つまりどちらになる可能性・素質も持っている)だと思っているので、「登場人物は皆バイセクシュアル」という作者と基本的には同基点だと思うんだけど、登場人物のなかにどの時点でそれが理解できたのか(自分のバイセクシュアリテイを享受したのか)と言う説明が何処にも書いてない。

割合的に男性は明らかな違いを本人たちが意識するのではないかと思わずにはいられない。
ここにいるプリンスの多くは当然若者なので全てが全て自分の性を理解しているとは思えないし。ローレンはもともと、トリスタンほどバイではないのは微妙にスケベっぽさが過去を説明する言葉から推測できないこともないけど(あくまでも微妙です。)

この本に出てくる男女は「強烈に女好き」「強烈に男好き」「強烈に同性愛」って感じがあまりしないのがつまんないんです
それからサポートのキャラクターのプリンセスやプリンスにとんでもなく「スキもの」がいてくれないとね・・・非常に。強制されているけど「実はスキでそれもご主人がよく知っている」とか「フェチがご主人と同じだから選ばれた」とか・・・そういうのが驚くことに皆無。あるいはご主人たちのなかでも「こだわり」のようなものが欠けている。
プリンスたちのなかには同性愛行為に何度強制されても吐き気がするほど嫌悪感がある、あるいはそうだったのが服従させられるうちに実は変わったなんていうのも皆無。(作家としてその程度の差別表現は許されるはず)嫌悪感まで表現するのが差別的だからというなら100歩譲って「同性愛行為ではまるっきり機能できない」なんていうシーンが無い。三冊もあるんだから「うまくいかないことがある」なんていう光景もヴァリエーションのうちだと思うのに。「自分の趣味に合うように訓練する」という意図が薄くて「SMだからお仕置きしてるだけ」・・・フェチがいない。厳密にはSMもフェチだけどね~。国全体がそう(!)だと「急に服従させられて心理的に混乱する」というのがまるでないし。(安心のルールなのだろうか)

テオフィル・ゴーティエやリストが普通の手紙で「あなたの小さな美しい足の下に私の頭を横たえ・・・」とか言うエロを意図しない(と思う・・・一応)服従の表現のほうがよっぽどエロっぽいと思うのは私だけですね、きっと・・・いやエロ本は深く考えることはない。

美容院でヘアカラーをしながら読むにはちょうどよいと思えばいいか。
≫≫実際、この日の午後平然と美容院で読んでました。(10/9)


いや、ちゃんと書いてある。

≫抵抗する男が見たいというのは私だけなのだろうか。もう我を忘れて抵抗するというシーンが無いのが残念。
いや、何も書いていないと言うわけではない。
ローレンが突然「服従行為≪説明しません≫」から立ち上がりレクシウスを圧倒する所で一応ちゃんとHe was strong, very strong, and he struggled violently. But I was much stronger and considerably bigger.
と書いてありますね短い文章で。≪短すぎる。≫
この瞬間の2人の心理が知りたいんですよ。(書いてない)
そのあとも抵抗しているといえばいるんだけどローレンが淡々と語っているのでレクシウスの心理における「恐怖」、上の文章の直前の「ローレンが命令されないのに立ち上がる瞬間の心理」が全然描写されていない。

ローレンは心理的には部屋に2人きりになった時点で自分の中では決心がある程度できていてレクシウスを圧倒しているけど、それはまだ相手にはわかっていない。反抗的な応答をしているけど相手にまだタズナを握らせている。
次の瞬間2人の立場が完全に逆転するという「このシリーズ全3巻全体でも(反)象徴的シーン」なのにねー。ローレンレクシウスはビッチスラップの打ち合い(平手打ちのことだけど(笑)、女同士の喧嘩じゃあるまいし...)数回確かにしてるけど圧倒するほうも抵抗するほうもそれじゃね~説得力があまりにも無い。小柄な女の私でさえ「おい・・・」と思ってしまいます。
ローレンがてこずる様子もほとんど無いし。重要な展開のシーンが・・・
マ、1983年には男同志でもビッチスラップは暴力的だったのかもしれないけど。

今では男がビッチスラップしたら相手の女からも笑われます。(そして女は平然とその後ドメスティックヴァイオレンスで警察呼んで訴える。)そのぐらい威力無いです。

というか、ただのスラップという言葉がビッチスラップに変わってしまったのはここ一年ぐらいだからしょうがないのか・・・(10/9)


昨夜、朝3時まで読んでいて 

最後の2章で目が見えなくなり(私は夜、数時間の読書をするとフォーカスできなくなって、昼間の二倍かかる。)あきらめました。
で、今朝フレッシュな視力で30分読書。最終まで読破。

最終巻の後半は面白い展開でした。ビューテイのキャラクターは最後まで構築しなかったけど代わりにローレンがストーリー全体の趣旨を全て解き明かしてくれたので、第一第二巻で私がずっと理解できなかった心理的な側面と作者の意図がなんとなくわかりました。

レクシウスローレンの立場の入れ替わりも
レクシウスは抵抗しようと思えば出来たけどそうしなかったのは彼の選択である」
というようなくだりで説明されています。(もったいない。ストーリーを面白く出来るきっかけなのにそのまま理屈だけ説明しちゃうなんて)

三冊のうち、最終巻がやはりおもしろいです。(男同士のは読みたくないという人には勧めませんが・・・)

上にも書いたけど、もっとビューテイのキャラクターを構築して欲しかったこと、どうせなら、ローレントリスタンのキャラクターも最初から絡めて(いや、絡んでいることはいるが・笑)キャラクターを構築すると、最後ももっと納得できたと思う。
どうせローレンとビューテイが「幸せに暮らす」なら、最初からローレンを語り手に使えばよかったのに。

無駄な登場人物が多すぎる。「ビューテイを魔法から解いただけの王子」「最初にビューテイが惹かれたアレクセイ」両方ともローレントリスタンに割り振ることが出来たはず。

それからローレンとビューテイの心理的なつながりがあまり構築されていない
というか、最後は、ビューテイが受け入れる求婚者は魔法を解いた王子ではなくローレン。という事は目次の半分がローレンの章だからなんとなくわかって来るんだけど、そうじゃなくてはいけない理由がやはり薄い。
二巻で登場したトリスタンをそのまま語り手に遣っても同じ結果にすることはできたはず。第二巻でせっかく構築したトリスタンはなんとなく宙ぶらりん。結局以前のご主人のところ(ホモセクシュアル関係)に戻っていくんだけど、特に彼のホモセクシュアリテイに関する説明は自由の身のときにも男の愛人がいた、というだけ。ところが、ビューテイと絡めてしまったりローレンにも支配させてしまったためになんだか彼の登場する意味が余計薄れてしまった。(ローレントリスタンのは読んで楽しかったから文句は無いけど)

ローレンは第三巻ではほとんど主役だから「彼とビューテイ」というのはアイデアとしては納得できるけど彼の自発的な興味の対象は全て男、(レクシウス、トリスタン、新しいご主人、新しい奴隷仲間・・・)で、ビューテイとはたったの一、二度チャンスがあったというだけ。で、ビューテイを思い出すのは「冒険を偶然共にした」という理由以外特に無し。
ローレンにとってトリスタンでもビューテイでもあまり違いが無い。そしてローレンは上記の男たちとの心(だけじゃない・・・)の絆は説明しているけど、ビューテイとのことは単純に「でも実はビューテイのことは毎日思わない日はなかった」という説明のみ。

ローレンは支配、ビューテイは服従というのはわかるけどビューテイにとっては、トリスタンでもローレンでも特に違いは無い。二人とも似たようなクオリテイを持っているし、最後に「王がなくなった国の王子」はどちらの名前を入れても最後に「ビューテイと仲良く暮らしました」にできる。(トリスタンが完全にホモセクシュアルになったとも書いてないし。)
「人質」としての契約期間が切れる前に突然出身国の王である父を亡くし、王となったローレンは、ビューテイが多くの求婚者を尽く拒否してまだ結婚していないことを知らされ彼と彼女が御伽噺の「そして幸せに暮らしました」という結論。

「いやー、ローレンとなら私も幸せに暮らせる・・・」と一日楽しかったのだから、エロ本はキャラクター構築が弱くても別に構わないのかもしれない。主人にも読ませてみよう。(彼は「男同士」の部分を読んで楽しめないかもしれないが・・・)

***
最終章を読みながらたまたま聞いていたお気に入りのラジオトークショーで女性が「私の奴隷を友人全員の前でお仕置きした」とか言っていて笑ってしまった。というか、それを見に集まった友人達が全員集合したという事実だ。
自分で参加するのは抵抗あるけど見るだけなら一度見てみたいという事なのだろうか?
そういう人たちにはこのトリロジー(三部作)お勧めできます。





Tuesday, October 05, 2004

アン・ライスの『眠り姫』三部作

がら~りと話題が変わって(本当に。)

アン・ライス-Anne Rice(この作品ではA.N. Roquelaureを使用)の「眠り姫三部作」

アン・ライスはトム・クルーズ、ブラッド・ピット(当時無名のアントニオ・バンデラスとスパイダーマンのキアステン・ダンストも出演)「インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア」最近では夭折した歌手アリーヤの主演した「Queen of The Damned」 の原作者である。

ヴァンパイアもの、ニューオリンズのフレンチクオーター文化ものでは世界で右に出るものがいない彼女、なんと1983年に「自分で読みたいとおもう、または読んで楽しく納得できるエロ本が無い」と言う基準で執筆したらしい。

確かに女性向けのエロ本は80年代にはほとんどなかった。

米国では60年代に女性解放運動が始まり、80年代に実生活での同権がある程度浸透してはいたが、やはり「男性中心の性からの開放」はまだだった。
エイズの医学的実態がまだ解明されずにいた頃である。
女性向けというと「プレイガール」という雑誌のみ。そして「初・女性向け男性ストリップクラブ・チッペンデールス」がオープンしたのがちょうどこの頃ではなかったか?80年代後半だったか?
ちなみに男性ストリップはゲテモノで終わらず文化として定着した。そして男たちがバチェラーパーテイでストリップクラブに繰り出すのと同じように、女たちも結婚前夜の同性同士独身最後の夜を満喫する「バチェラレット・パーテイ」ではちゃんと男性ストリッパーがエンターテイメントを提供するしきたりも定着した。
その後、ロマンス小説という分野が繁栄、その中にやっとエロ本とまでは行かないがある程度性の描写を主体にしたシリーズがでてくるようになったが、明らかに男性向けのエロ本は女にとって全然面白くないという「社会的意識・認識」が定着する前のことだ。

約20年が経過して、作家としての地位を不動にしたアン・ライスのこの作品が現在になって再注目されているのは、やっと一般に「享受されるだけでなく広く愛読される」風潮になったという事なのだろう。
私自身は本を購入するまで彼女の最新作だと思っていた。20年以上前に出版されていたとは。

私たちの知っている御伽噺が終わる直前からこの「大人向け3部作」がはじまるのである。そしてもちろん、いきなり「幸せに暮らしました」にはならない。2ページ目に眠り姫の部屋に入るところからしてエロテイックな描写が始まりあとは止まらないのである。
変に文学作品にしようという意図が無いから間延び(=飛ばし読み)する場所が無い。語彙の少ない男性向けエロと違って表現の豊かさが面白い。一応中世という設定のようだから会話も時代的でそれがまた余計女性には快感だったりする。

SMはいいのだが「同じパターンのお仕置き」があまりにも頻繁で、それだけでは少し芸がないかなとわずかに感じる。ちょっとは「品は変えてくれよ」というくらいか。もう一つ、登場人物はほとんどがバイセクシュアルである。これは、何か意図があったのだろうか?女性にとってバイセクシュアリテイは直感的にそれほど違和感が無いと思うが、ほとんど全員が、となると逆にホモセクシュアリテイに関する緊張感がなくなってしまうのでエロティカとしては逆効果ではないかと感じる。
つまり、エロ本を読む、ということには「幻想を見る」「実体験できないことを覗く」または、「覗き行為」だと思うのだが、最初からバイセクシュアルだとわかってしまうと「ああ、もしかして・・・これは」という密かな期待、または「登場人物はヘテロなのに強制されている」という緊張感が無くなってしまう。
人物と設定の構成が浅くて単純とかいう評があったが、そんなものが読みたければ「戦争と平和」を読めばよいのでかえってペースの速さに貢献していると感じた。たしかに、主人公の「Beauty」(眠り姫だが、もう起きたのでビューテイだけ)は結構すぐ「教育」されてしまったので、それが浅いといえば元も子もない。ビューテイは純粋なので簡単に教育されてしまっていいのだと納得しよう。それよりも他にビューテイと同じく囚われの身のプリンス・アレクシーがなんかのキャラクターの数でカバーされているから、別に飽きることはない。
とにかく、今のところ無駄なページが無い。

ミュセが匿名で著したといわれている「ガミアニ」は、彼が「直接卑猥な言葉や表現を遣わず通常の単語でどれだけ淫靡に出来るか」という賭けで挑戦されて書いたものだといわれている。
もちろん仏語のわからない私には判断することはできないのだが、その基準で言う限りこの「眠り姫」はその挑戦に十分勝利することが出来ると思う。(だいたい、現代のスラングなしのポルノは男向けのものには無いし。)

Monday, October 04, 2004

少子化問題

これは私にとってはなじみの無い話題だ。
私が日本にいる頃は危機感はあまり現実的ではなかった。

ところがちょっと待てよ、日本では人工中絶が蔓延し、隣の中国では家族一子が強制され生まれてきた女の子を売り飛ばしたり、もっと悲劇が起きていることを日本では何も問題と考えていない。

中国では二人目を生むとペナルティが科せられ、補助もなくなる。広い中国、地域によっては国からの援助でも基本的な生活水準を保持することさえ困難な家族が多く、「口減らし」に子供を売り飛ばしたり想像を絶するような悲劇が毎日の様に起きている。

どこかに捨て子、なんていうのは幸福なほうである。悲劇が起きる前にどこかに収容されれば命だけは助かるであろう。

日本では「中国の孤児」を引き取ろうと政府が運動して、政府が中国政府と交渉、里親になりたい両親を援助することで個人で孤児引取りをするより安全で、経費を少なくすることが出来るはずだ。里親の所得税減税、戸籍上の手続軽減など政府に出来ることはゴマンとあるはず。

世界中の先進国では地球の反対側から大金の経費をかけて、中国の孤児を引き取りに行く様々な人種、国、文化の親たちがいる。
結婚している夫婦だけでなく、独立し経済的・時間的に余裕はあるが離婚や子供を持つ年齢を過ぎて
いる独身者なども多い。
子供がもてなかった夫婦もいるし、自分たちの子供は3人ぐらい育てたがまだ夫婦とも若く、世界に貢献するエネルギーがあるので孤児を引き取る人々もいる。
米国では通常の「チャイルドタックスクレジット」と「経費控除」だけで、特に孤児を引き取ったからといって政府は特典は設けていない。外国から養子縁組をすると大体経費が300万円くらいするのは平均らしい。もちろんそれには斡旋事務所や米国中国往復など数回の経費も含まれる。

日本と中国は目と鼻ではないか。
きっとまとめて50家族ぐらいの往復ならジェンキンス氏の帰国飛行機のように航空会社が安価で入札するかもしれない。そうすれば家族の負担はかなり軽減される。

欧米では明らかに人種が違う孤児を受け入れにくいと言う里親もいる。だから斡旋事務所に大金を払い、ロシアやウクライナなどから白人の孤児を受け入れる家族もある。

その点日本人と中国人なら違和感も無いだろう。

少子化問題は簡単に解決できるのだ。世界中には孤児院で一つのベッドに赤ちゃんたちが4人もおしこまれ、人間との接触をすることなく育つ子供たちがたくさんいるのだ。
先進国で孤児受入数の記録がほとんどなく、孤児を引き取ろうと言う人が問い合わせる場所も無いのは日本だけである。

日本が世界に平和的に貢献したいなら「中国人孤児引取り」は最も人道的で崇高な貢献方法であり、それよりも何よりも国民レベルで参加できる。
また、子供の敬愛を受ける親たちはそのような事は問題にならないほど「親になる喜び」をしることができる。

それとも、他国で生まれた人間は日本人になるに値しない、自分の家族としては受け入れられないと考える人が多いのだろうか?

Friday, October 01, 2004

映画 『モナリサスマイル』 ジュリアロバーツを見た

特にジュリアのファンというわけでもないがさっぱりした彼女の描く女性がいつも好きなので、テレビで放映されるたびに見ている。
今のところこの映画、一番最初の部分をいつも見逃しているのだが大体映画としての筋はつかんだ。

非常に興味深く面白い。フィクションと事実が非常にうまくブレンドされて、フィクションの部分もうそっぽくない。『これは映画のお話だから』とは言わせないほど説得力がある。

設定は1953年ボストン郊外ウェルスリーにある名門女子大『ウエルスリー大学』の美術史教授の話だ。ウエルスリーは米国でも『セブンシスターズ』の一つに名を連ねる大学である。未だに女子大。ラドクリフ、ヴァッサー、バーナードは「男女同権ということで」男性も受け入れるようになっている。

日本では「セブンシスターズ」はあまり有名ではないが米国では『アイビーリーグ8大学』の女子大版という感じで『名門大学郡』として比較される。
その一因としてバーナード、ラドクリフはアイビーリーグの名門、コロンビア、ハーヴァードの『女子部門』として設立されたことが上げられると思う。
ヘレン・ケラーもラドクリフ出身である。

男女同権が謳われてアイビーリーグが全て女子学生を受け入れるようになったが女子大では伝統を守っている所がある。つまり男性に門戸を開放しているかによっても、学校の雰囲気がわかるのだ。
一番最初に男性を受け入れたヴァッサーは若い学校で、非常に進歩的。ジョンレノン夫人の小野洋子さんも実はヴァッサー出身である。(知らなかったでしょう?)

スミスやウエルスリーは保守的(伝統的というべきか)なのだろう。あるいは女性の教育に関しては進んでいると言う見方も出来る。

背景的なことはこの程度にして、映画を見て感じたことだ。

約50年前米国で起こっていたことが日本ではまだ起こっていないような気がするのだ。
70年代に『ウーマンリブ』(Women’s Lib=米造語女性解放)という言葉が輸入されたが日本では、思想、ライフスタイルとして定着するほど理解されなかった。つまりファッション的なもので終わってしまい基本的な『Women’s Liberation-女性解放』には至らなかった。ちょうど小学校低学年だった私は『女もズボンやジーンズをはいていい』などという教え方をされた。

80年代の初めキャリアウーマン、新しい女性などという動きがでた時も日本ではファッションで終わり。化粧品などのキャンペーンに使用されて意識改革には至らなかった。(という事が今になってわかるのだ)女性の喫煙率が増えたぐらいではないだろうか?賃金職種の差別などはなくならなかった。

この映画を見て感じるのは『自分たちを解放できない女性自身の後ろめたさ』みたいなものを非常にうまく描き出している。
演じている米国人女性たちは当然『歴史的事実=過去の文化』として非常に違和感を感じていたことを皆インタビューで語っていた。それほど、現代人と50年前と意識、文化における女性という定義が違っているのだ。
私は、日本人の女性としての経験が30年もあるので『日本人としての経験、意識の変換』を感じて余計興味を感じたのかもしれない。

きっと米国人女性たちは『50年で私たちはこんなに変わったのね』と思う反面、どこかにその名残があること、そしてその後ろめたさを指摘されるような感覚に駆られると思うのだ。
ところが私は、それが理解できると同時に『まだ開放されていない日本人』としての立場も認識させられたりする。

「あれ、今の日本人もジュリアロバーツの演じる教授に触発されると同時に基本的には自分たちを取り巻く社会に迎合しなければ生きていけない女子生徒と違わない。そしてそれが21世紀に現実だ。」

もしこの映画を見てそれを感じない日本女性がいたら、何と幸福な事だろう。

ジュリアロバーツ演じる教授が素質を見出すトップの女学生をこれまた、インテリのジュリアスタイルズが演じている。
スタイルズの演じる学生が卒業を目前にして婚約者と駆け落ち、結婚してしまったと聞き祝福しながらもがっかりした表情を隠せないロバーツ。
それを見てはっきり教授に説明するスタイルズの言葉。

「あなたは私たちにいつも「自分のやりたいことは何でも出来るのよ」と教えてくれたではなりませんか。
私にとって家庭を持ち家族を育てることは『私のやりたいこと=自分の意思』なんです。
弁護士にならなかったことを後で後悔するかもしれないけど、弁護士になって家族のそばにいられなかったらもっと後悔するでしょう。これが私の選択なのです。

あなたは『自分のやりたいこと』を選べといっているのではないことに気が付かないのですね?あなたは『あなたのやりたいことを私たちにも選択しろ』といっているのではないでしょうか?
私が主婦になったからといってあなたが考えるように私が『自分を失った』とも『何も考えない愚かな女性に変わる』わけでもありません。
私がやりたいことを自分の意思でするという事が本当にあなたが教えたかったことではないのですか?」

若い彼女のことばに愕然としながらも真実を見出せずにいられないロバーツ。
同時に現代に生活する私たちはロバーツよりも、若いスタイルズのほうが実は『進歩的ではないか』という事が理解できるのです。
女性が何をしているのかでその女性の価値やインテリジェンスが評価されるのではない、という事に進歩的なはずの教授、女子学生を触発してきたはずの教授が初めて次の世代の学生に『揺り起こされる瞬間』でした。